
この記事が含む Q&A
- なぜ社会は「自分らしさ」を受け入れにくいのでしょうか?
- 社会の価値観や伝統が多様性よりも一定の基準を重視するためです。
- 女性のADHDや自閉症はどのように診断されやすくなるのでしょうか?
- 性差や感情コントロールの困難さを考慮した診断基準の改善が必要です。
- 自分の個性を理解し、社会に受け入れてもらうために何が大切ですか?
- 自分の特性を正しく理解し、その価値を伝えることで、理解と共感を促すことが重要です。
大学でクリエイティブ・ライティングを専攻していた私は、シェイクスピアの授業を取ることになりました。
重たい赤色の分厚い全集を抱えて歩く姿は、きっと周りから見ると少し滑稽だったと思います。
ギリー(それが私です)は、必要がなくてもいつも全ての教科書を背中に背負って持ち歩く、小柄な女の子でした。
まるで「旅を夢見る女の子ヒッチハイカー」のようでした。
ある日、いつものように授業の前に教室の前で早めに待っていると、大柄なアメフト部の男子が私が抱えている本を見つめてきました。
彼が近づくにつれて、その影がどんどん大きくなっていくのを感じ、腕の毛がピンと立つのを覚えています。
「シェイクスピア?オレ、シェイクスピア大好きなんだ!」
彼は私を頭の先から足元までスキャンするように見ながら、そう言いました。
私はその場で自分のぎこちなさを強く意識しながら、「へえ、そうなの?どの作品が一番好きなの?」と本気で尋ねました。
今思うと、私は当時とても純粋でしたし、今も正直に言うと純粋なところがあります。
しかし、彼の答えはこうでした。
沈黙。
そして、「どれも全部好きだよ!」と。
そのとき私は、彼とは違ってシェイクスピアの作品を一つだけでも挙げることはできましたが、自分にも「お気に入り」はまだありませんでした。
ただ、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』には親しみがありました。
もし『じゃじゃ馬ならし』の話を知らなかったり、忘れてしまっていたら、簡単に説明します。
主人公のキャサリンは二人姉妹の姉で、強い意志を持ち、はっきり物を言う女性です。
そのため当時の女性像とは合わず、なかなか結婚できませんでした。
キャサリンの父親は、そんな彼女をペトルーチオという男性に嫁がせ、「じゃじゃ馬」を「手なずける」ことを期待します。
つまり当時の「望ましい女性像」にキャサリンを変えることが目的でした。
そして物語の最後で、ペトルーチオはキャサリンを「手なずける」ように見えます。
ですが、このキャサリンの「変化」は単純なものではありません。
キャサリンは言葉を巧みに使い、ペトルーチオの感情を翻弄します。
たとえば、ペトルーチオに「気が荒い」と言われたキャサリンは「私がスズメバチなら、針に気をつけてね」と切り返すのです。
これは侮辱として言われた言葉を逆手に取り、からかいながらも少しセクシーなニュアンスで返す巧みなやり取りでした。
「やったね、キャサリン!」と心の中で叫びました。
ようやく自分が共感できる女性キャラクターに出会えた気がしたのです。
若い女性としての自尊心を持ちながら、正直に言えば、私は「シンデレラ」のようなキャラクターにはもう飽きていて、「ムーラン」のようなキャラクターを求めていました。
女性はもっと複雑であるはずなのに、世の中はなぜかその複雑さを認めたがらないように感じます。
なぜ決められた枠に収まらない女の子は、すぐに「じゃじゃ馬」と呼ばれてしまうのでしょうか?
もちろん、今は同じ言葉は使われていないかもしれません。
でも私は今、臨床心理士であり母親として言いますが、これまで「失礼」「配慮がない」「声が大きい」などと何度も言われてきました。
そしてその誤解を解くために、自分を必死に隠そうとしたこともあります。
でも私は本当はそんな人間ではないと知っています。
キャサリンのように、私にも「自分らしさ」があります。
しかし社会はその「自分らしさ」を受け入れる仕組みになっておらず、その中でなんとか居場所を見つけようとしてきました。
その試行錯誤が、私の執筆の原動力となり、書くためのモチベーションとインスピレーションを探し続けることにつながりました。
「できる、できる」と自分を励ましながら、私は14歳の頃からずっと物語を書き続けてきました。
授業前、授業中、授業後も、周囲の高校生が私の机の周りをざわざわと歩き回る中でも書き続けていました。
実際には、「集中力が続かない」という悩みを解決する万能薬を探していたのです。
机に座って文章を書きたいだけなのに、なぜか落ち着いて座っていられない「失礼で配慮がない女の子」を直す即効薬を探し求めていたのです。
ここで重要なことを当時の私は知りませんでした。
診断されていなかったADHD(注意欠如・多動症)を持つ女性、あるいは少女として、私は常に「新しいことを探し続ける刺激」を求めて生きていました。
そしてその「刺激探し」は、女性を精神的に追い詰めることもあります。
女性のADHDに関する誤解は、私を含め、多くの女性が大人になってから診断を受ける原因になりました。
私たちの症状は、ただの「うつ病」や「不安症」とだけ見なされてきました。
しかし、誤診は不安やうつをさらに悪化させます。
そして知っておいてほしいのですが、ADHD、ホルモンの変動、うつ病、不安症は女性の場合、しばしば同時に起こるのです。
ADHDは、男性に比べて女性において多くの重大なリスクを高めることがわかっています。
たとえば死亡率の上昇、成人後の精神科入院の可能性の増加などです。
また、ADHDの女性は、過去の衝動的な行動を振り返ったときに大きな恥ずかしさを感じやすく、自殺を試みるリスクもADHDではない女性より高くなります。
それほどの状況なのに、なぜ多くの女性は今になってようやくADHDと診断されているのでしょうか?
問題は、現在もなおADHDの診断と治療の基準が「男の子を基準」に作られてきたことにあります。
ここで私を含め多くの女性が問いかけています。
「男の子を基準に作られた診断基準で、女の子や女性のADHDを正確に評価できるのでしょうか?」
最近ようやくわかってきたことですが、女性のADHDでは「感情や感情のコントロールの困難さ」が診断基準の中で過小評価されてきました。
よく考えてみてください。
行動のコントロールが難しければ、当然感情のコントロールも難しくなります。
そして不安やうつの影響を受けやすい女の子の場合、この関係性はさらに強まるのです。
(出典:米Psychology Today)(画像:たーとるうぃず)
ADHDにおいても、性差があるのですね。
自閉症についてもそう言われています。
正しく理解され、正しい診断、適切な支援につながることを願います。
(チャーリー)