この記事が含む Q&A
- イナーシャとは自閉症の人が日常で経験する「始められない」と「止められない」の中間を行き来する感覚を指すものなのでしょうか?
- はい、やる気があっても体が反応しない状態と、集中して止まれない状態が連続的に現れる体験を指します。
- イナーシャは怠けや意志の欠如ではなく、切り替えの負荷や背景的な感覚・認知要因が関係しているという理解でよいですか?
- はい、やる気があっても動けないことや、切り替えの困難さが背景にあるとされます。
- どのような対処や支援が有効と紹介されていますか?
- 誰かと一緒に作業する、外部からの声かけや締め切りを用いる、細かく計画を立てるなど個人に合った工夫が紹介されています。
多くの自閉症のある人が、日常の中で説明しづらい感覚を抱えています。
「やりたい気持ちはあるのに、なぜか体が動かない」「いったん始めると、今度は止められなくなる」。
こうした体験は、長いあいだ「怠けている」「気合が足りない」「意志の問題」と受け取られがちでした。
自閉症当事者のあいだでは、このような体験を表す言葉として、「イナーシャ(inertia)」という表現が使われてきました。
物理で使われる「慣性」と同じように、「止まっている状態は止まり続け、動いている状態は動き続けてしまう」感覚を比喩的に表した言葉です。
「イナーシャ」という当事者の言葉を手がかりに、自閉症のある人の体験を学術的に整理しようとイギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン心理学部を中心に、オーストラリアやイギリスの大学に所属する研究者と自閉症当事者研究者が協働して研究を行いました。
これまでのインタビュー研究とは異なる方法を選び、当事者が自然な形で語っている言葉に注目しました。
分析対象となったのは、ソーシャルメディア「レディット」に投稿された、自閉症当事者による書き込みです。
2005年から2022年までに投稿された数千件の中から、「動き出せない」「止められない」「切り替えられない」といった体験が語られている投稿を選び、最終的に約500件の投稿と、約1万件のコメントが分析されました。
これらは研究者に質問されて語られたものではなく、当事者が日常の中で自発的に共有してきた体験です。

分析の結果、自閉症のイナーシャは、多くの人にとって「中間がない体験」として語られていることが明らかになりました。
何もできずに動けない状態と、ひとつのことに深く入り込みすぎて止まれない状態。
その二つの極端な状態のあいだを行き来している、という感覚です。
まず多く語られていたのが、「始められない」状態です。
掃除や入浴、歯磨き、仕事、勉強、さらには好きな活動でさえ、「やりたい」「やらなければならない」と思っているのに体が動かないことがあると語られていました。
頭では理解しているのに、体が反応しないような感覚や、見えない壁に阻まれているような感覚として表現されることもありました。
この状態は、意欲の欠如や怠けとは異なります。
むしろ、やる気や関心があっても関係なく起こる点が、当事者によって繰り返し強調されていました。
やることが多すぎたり、手順が複雑だったりすると、何から始めればよいかわからなくなり、圧倒されて動けなくなることもあると語られています。

一方で、イナーシャには反対側の極端な状態もあります。
それが、「止められない」状態です。何かを始めると、非常に強い集中状態に入り、時間の感覚や空腹、疲労に気づかないまま作業を続けてしまうことがあります。
この状態は、楽しく、満たされ、非常に生産的に感じられることもあり、当事者は「フロー」に近い体験として語っていました。
しかし、この「止められない」状態も、必ずしも良いことばかりではありません。
食事や睡眠、トイレといった基本的な身体のサインを無視してしまい、体調を崩したり、生活のリズムが壊れたりする原因になることもありました。
自分でも止めたいと思っているのに止められない、という点で、この状態もまた苦しさを伴う体験として語られています。
多くの投稿で共通していたのが、「切り替え」が非常に大きな負担になるという点です。
何もしていない状態から何かを始める切り替え、集中している状態から別のことへ移る切り替え、そのどちらもが強いエネルギーを必要とし、切り替えそのものが一つの重い作業のように感じられていました。
こうした切り替えの難しさは、やがて悪循環を生み出します。
動けない時間が続くと、できなかった自分を責め、落ち込む気持ちが強まります。
その結果、さらに動き出しにくくなります。ようやく動き出せたとしても、今度は止まれずに無理を重ね、疲れ切ってしまいます。
そして再び、何もできない状態に戻る。この循環を、多くの当事者が「悪循環」や「ループ」として表現していました。

研究者たちは、このイナーシャの循環が、疲労やエネルギーの消耗、気分の落ち込みと深く関係している可能性を指摘しています。
とくに、自閉症のある人が「一度にひとつのことに強く集中しやすい」という特性が、切り替えの難しさや疲れやすさと結びついている可能性が示唆されています。
投稿の中では、自閉症以外の特性がイナーシャに影響しているという語りも多く見られました。
その一つが、PDAと呼ばれる特性です。
PDAは、日本ではまだあまり知られていませんが、自閉症の文脈で語られることの多い特性で、「病的要求回避」と訳されることもあります。
ただし、当事者や研究者のあいだでは、単なる反抗やわがままではなく、要求と感じた瞬間に生じる強い不安や心理的抵抗として理解されています。
この研究で分析された投稿では、PDAをもつと自認する人たちが、「他人からの要求」だけでなく、「自分自身の中から生じる『やりたい』『やらなければならない』という気持ちさえ、強い負担として感じてしまう」体験を語っていました。
やりたいはずの行動であっても、それを「自分への要求」と感じた瞬間に、心身が強くブレーキをかけてしまい、動き出すことが極端に難しくなると感じられていました。
また、ADHDの特性を併せ持つ人も多く、変化や刺激を求める気持ちと、一定の状態を保ちたい気持ちがぶつかり合い、イナーシャがさらに複雑になると語られていました。
集中できないことと、集中しすぎてしまうことの両方が起こりうる点が、混乱の原因になっていると感じられていました。

こうしたイナーシャは、仕事や学業、家事、身の回りのこと、人間関係など、生活のあらゆる場面に影響します。
連絡を取る一歩が踏み出せず、誤解されてしまうことや、自分を責め、恥や罪悪感を抱くことにつながる場合もありました。
一方で、当事者たちは工夫を重ねながら生きています。
誰かと一緒に作業すること、外からの声かけや締め切りを利用すること、細かく計画を立てることなど、自分なりの対処法が共有されていました。
しかし同時に、医療や支援の現場でこの体験を理解してもらえなかった経験も多く語られており、適切な支援につながりにくい現実も浮かび上がっています。
この研究は、「イナーシャ」という言葉を通して、自閉症のある人が長年感じてきた「説明しにくい体験」を、初めて体系的に整理しました。
新しい診断名を増やすことが目的ではありません。
むしろ、これまで個人の努力や性格の問題として片づけられがちだった体験に、「名前」と「背景」を与える試みだといえます。
動けないことにも、止まれないことにも、理由があります。
この研究は、自閉症のある人たちが抱えてきたその感覚を、「ある体験」として静かに認め、理解しようとする一歩を示しています。
(出典:communications psychology DOI: 10.1038/s44271-025-00386-4)(画像:たーとるうぃず)
なかなか動かない、動いたら止まらない。
自閉症の人のなかにはその「慣性の法則」がすごく強く効いてしまうことがあるのですね。
広く知られてほしいと思います。
(チャーリー)





























