この記事が含む Q&A
- ACEが幸福感に影響するしくみは?
- 逆境体験の多さがストレス影響を強め、そのストレスが幸福感を低下させると示されています。
- DHH/DLDと一般校の違いはある?
- 聞こえにくさやことばの難しさの有無にかかわらず、ACEの報告量やストレス反応には大きな差は見られません。
- 研究が示す支援の要点は何ですか?
- ストレスを軽くする環境づくりと定期的なスクリーニング、安心して話せる大人の存在が幸福感を高めると提案されています。
人が育っていく過程には、環境や人との関わり、そして偶然の出来事が積み重なってつくられていく、ひそやかな心の揺らぎがあります。
わたしたちは、その揺らぎを言葉にすることができるときもあれば、できないまま抱えつづけることもあります。
とくに、聞こえにくさがある子どもや、ことばを理解したり使ったりすることに困難のある子どもたちは、その「抱えつづける時間」がどうしても長くなってしまうことがあります。
日常のやりとりで気持ちが伝わらないことが多いと、人との距離感も、自分自身への感覚も揺らぎやすくなるからです。
今回紹介する研究は、オランダの特別支援教育に通う10代の若者たちを対象に、「逆境体験(ACE: Adverse Childhood Experiences)」がどのように積み重なり、その積み重なった体験がストレスとして心にどのような影響を与えているか、そしてそのストレスが幸福感にどんな形で関わっているのかを、丁寧に調べたものです。
研究を行ったのは、ラドバウド大学 行動科学研究所、オランダの聴覚支援を担う組織 Koninklijke Kentalis、そして聴覚・ことばの支援学校ネットワークである Stichting VierTaal の研究チームです。
10代を対象にした逆境体験研究は世界的にもまだ多くありませんが、とくに聞こえにくさ(DHH: Deaf or Hard of Hearing)や発達性言語障害(DLD)をもつ若者たちを丁寧に比べた研究は、さらにめずらしいものです。
この研究が大切にしているのは、「どの逆境体験が、どれくらいの数積み重なったのか」という量だけではなく、「その出来事が本人にとってどれほどストレスとして残ったのか」という質の部分です。
逆境体験が多いほど心身に不調が出やすい、ということはこれまでの研究でも確かめられてきました。
しかし「同じ出来事でも、それがどれくらいストレスとして心に残っているか」が幸福感を左右するかもしれないという視点は、本人の“生きづらさ”をより自然な形で説明してくれるものです。

研究の参加者は、特別支援教育に在籍している 127名の若者たち(うちDHHが32名、DLDが95名) と、比較対象として一般の学校に通う 86名の若者たち です。
年齢はいずれも12〜17歳。どの子の背景にも、家庭や学校、友人関係、生活環境といった固有の世界があり、その世界の中で「聞こえにくさ」や「ことばの理解のむずかしさ」が日々どのように影響しているかは、一人ひとり異なります。
研究者たちは、こうした個別の体験を否定せず、その“揺らぎ”に寄り添いながら、客観的なデータとして整理しています。
若者たちに質問された逆境体験(ACE)は、家庭内の暴力や虐待、親の病気、貧困、身近な人の死、事故、いじめなど、全部で16項目におよびます。
そして、そのうち1つでも「はい」と答えた若者には、続けて「その出来事がどれほどストレスとして残っているか」を測るストレス影響尺度(CRIES-13)が実施されました。
幸福感(Well-being)は、過去2週間の「気持ちの明るさ」「人とのつながり」「生活の中の前向きさ」などを尋ねる質問紙で測定されています。
まず、聞こえにくさやことばのむずかしさをもつ若者たちは、そうでない若者たちに比べて、有意に多くの逆境体験を報告していました。
とくに差が大きかったのは「子ども時代の虐待」に関する項目です。たとえば、
- 感情的な虐待
- 身体的な虐待
- 性的な被害
- 感情的なネグレクト
- 身体的なネグレクト
これらすべてで、特別支援教育に通う若者のほうが高い割合で経験していると答えていました。

さらに、逆境体験が「2つ以上」「3つ以上」「4つ以上」と積み重なっている割合も、聞こえにくさ・ことばの困難をもつ若者たちのほうが圧倒的に高いという結果が出ています。
たとえば 7つ以上の逆境体験があると答えた若者は、特別支援では27.6%、一般校では14% と大きな差がありました。
これは、単純に「特別支援の子どもは逆境が多い」という見方ではありません。
研究者たちの解釈としては、コミュニケーションの難しさそのものが、周囲とのすれ違いや誤解を生みやすく、それが家庭内の緊張やストレスを高める可能性があるということです。
たとえば、子どもが親の指示を理解できないとき、大人がそれを「反抗」と受け取ってしまうことがあります。
本当は理解が追いついていなかっただけなのに、叱責の回数が増えたり、厳しい態度につながったりすると、親子双方にとって苦しい状況が積み重なっていきます。
研究では、DHHとDLDを比較しましたが、どちらがより逆境体験が多いかという差は見られませんでした。
これは重要な点で、聞こえにくさか、ことばの困難か、どちらの理由でコミュニケーションのハードルが生まれているかに関係なく、若者たちは似たような困難を報告していたということです。
つまり「コミュニケーションのむずかしさそのもの」が逆境のリスクを高める要因になりうるということです。
また、研究者たちがとくに注目していた「いじめ」に関しても、やはり特別支援の若者たちに経験者が多く見られました。
社会性の発達が思春期に大きく揺れる中で、コミュニケーションのずれが対人関係のミスを増やし、いじめや仲間外れにつながることは少なくありません。
特別支援の学校に通っていても、必ずしも守られるわけではなく、学校外での活動やSNSを通じていじめに遭う可能性もあります。
逆境体験が1つでもある若者には、ストレス影響尺度が実施されましたが、ここでも特別支援の若者たちは、そうでない若者よりも 大幅に強いストレス反応を示していました。
とくに注目すべきは、トラウマ反応の目安となるスコア(30点以上)に達した若者の割合が 48.8% と非常に高かった点です。
これは「いま現在、とても大きな心理的負担を抱えている可能性がある」というサインでもあります。
さらに、幸福感の尺度では、特別支援の若者たちは一般校の若者に比べて 有意に低い幸福感 を報告していました。
ただし、逆境体験がゼロの若者たちに限って比較すると、幸福感は特別支援と一般校で差がないという結果でした。
これは、幸福感の差を生み出している主な要因が「聞こえにくさやことばの難しさそのもの」ではなく、逆境体験とそこから生まれるストレスの強さであることを示しています。
研究者たちは、逆境体験の数と幸福感の関係を、ストレスが仲介しているかどうかを検証しました。
結果は明確で、逆境体験が多いほどストレスが強く、そのストレスの強さが幸福感を下げているというモデルが統計的に支持されました。
つまり、逆境体験が直接幸福感を下げているのではなく、逆境体験が生み出したストレスが幸福感に影響しているということです。
この結果は、特別支援に限らず、どの若者にとっても大切な視点を示しています。

過去の逆境そのものを変えることはできませんが、「その出来事が今も心にどれだけストレスとして残っているか」は、支援や環境によって軽くできる可能性があります。
そして、この「ストレスを軽くする」「安心できる環境に触れる機会を増やす」ことこそが、若者たちの幸福感を高めるために最も重要なポイントになるという示唆です。
また、研究の中では「コミュニケーションのむずかしさ自体が、逆境体験とストレスの関係を強めたり弱めたりするのか?」という点も分析されました。
しかし、そのような“調整効果”は見られませんでした。
つまり、聞こえにくさが強いからストレスが倍増する、という単純な構造ではなく、逆境体験 → ストレス → 幸福感の低下 という流れは、DHHでもDLDでも、一般校の若者でも似たように働いていたということです。
今回の研究は、特別支援教育に通う若者たちが直面している状況を、これまでにないほど具体的に示しています。
とくに、虐待やネグレクトの報告が多かったことは、社会として見逃してはならない問題です。
そして、逆境体験が多かった若者のほぼ半数がトラウマ反応の可能性を示していることは、学校・家庭・医療のいずれの現場においても、早期の介入が極めて重要であることを意味しています。
研究チームは「ストレスと幸福感の定期的なスクリーニングを特別支援教育の現場で必須にすべきだ」と提案しています。
逆境体験そのものは変えられませんが、現在のストレスを軽くすることはできる。
安心して話せる大人がそばにいること、気持ちを言葉以外の方法でも表現できること、誤解される心配のない環境があること。
そうした積み重ねが、若者たちの幸福感を支える大きな力になります。
また、この研究は「特別支援の若者だけが特別に弱い」という構図では語っていません。
一般校の若者でも、逆境体験が多い子は同じようにストレスが高まり、幸福感が下がりやすいということも示唆しています。
つまり、問題の核心は「聞こえにくさ」や「ことばの難しさ」ではなく、逆境がストレスとして心に残り続ける環境」にあります。
逆境体験を抱えた若者は、自分の体験を言葉にすることがむずかしいことがあります。
とくにDHHやDLDの若者はそれが顕著です。
だからこそ、支援者や家族が「言葉になる前のサイン」に気づくことが大切です。
疲れやすさ、学校を嫌がる様子、眠れない日が続くこと、人とのトラブルが増えること。
これらは、ストレスが心の中で大きくなっているサインかもしれません。

今回の研究は、科学的なデータを通じて、大切なメッセージをわたしたちに届けています。
「逆境そのものだけではなく、それがどれだけストレスとして心に残っているかが、若者の幸せを左右する」
そしてそのストレスは、一人では抱えきれないことがある。
けれど、適切な支援と理解があれば、少しずつ軽くすることができる。
若者たちが安心して過ごせる環境は、特別なものではなく、周囲の大人の小さな気づきと寄り添う姿勢から生まれていくのだということを、研究は伝えています。
今後、このテーマに関するさらなる研究が進めば、若者たちの心の回復力やレジリエンスを育てるための方法にも光があたるでしょう。
聞こえにくさやことばの難しさをもつ若者たちが、安心して自分のペースで育っていける社会をつくるために、この研究が示したデータは大きな一歩となります。
そして、すべての若者たちが、自分の気持ちを安全に誰かに伝えられる場を持ち、過去の逆境が未来の幸福を奪ってしまわないように、大人のわたしたちができることはまだたくさんあります。
研究の数字の背景には、一人ひとりの生活があり、心の揺らぎがあり、立ち上がろうとする力があります。
その力を支えるために、今回の研究は“気づき”と“対話”のきっかけをわたしたちに届けてくれているのです。
(出典:PLOS Mental Health DOI: 10.1371/journal.pmen.0000466)(画像:たーとるうぃず)
問題の核心は「聞こえにくさ」や「ことばの難しさ」ではなく、逆境がストレスとして心に残り続ける環境」
若者たちが安心して過ごせる環境は、特別なものではなく、周囲の大人の小さな気づきと寄り添う姿勢から生まれていく
過去を変えることはできません。
だからこそ、このことをよく知っていただきたいと願います。
(チャーリー)




























